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嫌がらせの美学

SNSをやり始めて、それなりにフォロワーが増えてくると、「嫌がらせ」に遭遇する。明確に攻撃的なものもあれば、遠回しな嫌味、嘲笑・冷笑の類など、種類はさまざまだ。


世の中には、明白な悪意・害意を持って他人を攻撃できる者と、そうでない者がいる。これはネットであろうと、リアルであろうと、変わらない。


私は明白に後者に属する”善良”な人間なので、嫌がらせはしないにせよ、他者を批判するときでさえ、どういう形であれ大義名分を必要とする。また、攻撃に対する(正当な)反撃も躊躇しがちである。どうしても半歩遅れる。


しかし、それで良いのだ。


他者への嫌がらせ、攻撃には、呪いという要素があり、斬れば自分も痛むのである。

人を呪わば穴二つ。呪えば呪い返しを食らう。

低次元の攻撃の応酬を重ねるうちに、魂が汚れていく。


私はその感覚が嫌いである。


さて、以上のようなことを考えているうちに、十年以上前のあるできごとを思い出した。


とある小さな町の工場にヘッドハントされて、品質保証の仕事をしていたときのことだ。


私にはK君という部下が一人いた。あまり社内的には仕事の評価の高い人物とは言い難かったが、私は彼の論理的思考の筋は悪くない、と思っていたので、なんとかポテンシャルを引き出すことはできないかと、いろいろと試行錯誤をしているところであった。


ある時、そのK君が思い詰めた表情でやってきて、言った。


「生産管理課長のYさんに嫌がらせの仕返しをしたいのですが、やり方を思いつきません」


ほう、と言って私は話を聞いた。


要するに生産管理課長から品質保証課に対する日々のデータの受け渡しや情報伝達のときに、ネチネチと嫌味や小言を言われたり、重要な申し送りをしないといった嫌がらせを受けているのだ、ということだった。


生産管理課のY課長は、当時30代前半であった私たちよりも二回りほど年上の女性であり、毎日の製造の中で、細かなデータ改ざんを行っていると疑われる人物だった。


私は品質管理課の責任者として、データ改ざんに関わる彼女とは暗闘の最中にあった。そのことも私の部下である彼に影響していたのかもしれない。


私は悔しげに説明するK君の純朴そうなマヌケ面を見ながら、「この人は”善良”に属する人間だよなぁ」と考えていた。


だいたい、確信犯的に”悪”を為せる人間というのは、「嫌がらせの仕返しをしたいのだが方法がわからない」などと上司に相談に来ない。勝手に自分の範疇でやり返しているものである。


悪なるY課長と嫌がらせの応酬をしたところで、”善良”なるK君は負ける。さらに惨めに傷つけられるに決まっている。


「勝てんぞ。やめておきなはれ」と私は言った。


そして、「仕事の精度を上げて付け入る隙を与えないこと」「情報隠しについては、別途複数の情報収集ルートを確保すること」の二点を指示した。


はたして、K君は不満そうであった。


「はあ…」と言ったきり、俯いたままである。


ふと思った。そもそも「嫌がらせの仕返しをしたい」などという相談は仕事上の事案なのだろうか。厳密には仕事の範疇に入らないのではないか?K君は私を上司としてではなく、”兄貴分”として相談に来たのかもしれなかった。ならば、応えてやらねばなるまい。私はいらぬ気を起こし、しばし考え込んだ。


そして、ある嫌がらせの手段を伝えたのである。


「Y課長に向かって、『お母さん』と呼びかけてみなさい」


K君は目をパチクリとさせていた。


「小学生の時、教壇の先生に向かって間違って『お母さん』と呼びかけるやつがいたろ。皆がいるときに、それをやれ」


K君は身長180㎝、ラグビー部出身の偉丈夫である。人が良いので現場の年配の女性たちには舐められがちではあるが、体格十分で威圧感があり、十分に男臭く、むさ苦しいおっさんである。しかもY課長から見れば、敵対している課の一員でもある。


その敵視しているムサいおっさんから、間違いとはいえ皆の前で「お母さん」とイキナリ呼ばれる。その気持ち悪さ。いかに意地悪の応酬に慣れたY課長といえども、多少は不快に決まっている。何ハラにあたるかは知らないが、効果的な嫌がらせには違いない。それに、そもそもわけがわからない。意図が不明であり、言い間違いを装って言うのだから、嫌がらせと悟られることもなかろう。Y課長の仕返しの意欲を惹起しない、という点でも良いのではないか、と思われた。


さらにもう一つの計算もあった。Y課長のK君に対するイビりには、母親が出来の悪い息子を苛むような捻じ曲がったものが含まれているようにも感じられた。「お母さん」と呼びかけることは、もしかするとY課長に対する牽制として作用し、うまくいけばK君への嫌がらせが緩和されるかもしれない。


しかし、K君は私のそのような深謀遠慮を解することなく、「そんなこと、言えませんよ。恥ずかしいじゃないですか」と抗議してきた。


「だからいいんだ」と私は言った。「その恥ずかしさと引き換えにするからこそ、相手にダメージを与えられる」


悪意を持って相手を攻撃するからには、自分も相応のダメージを負う覚悟が必要だ。Y課長は一瞬身震いをして嫌がるであろう。その一方で、K君も相当の恥を掻く。


しかし、そうでなければならないのだ。Y課長の反撃の意思を回避し、呪い返しを受けないためにもー。


K君はしばらく頭を抱えてうめいたのち、「ちょっと考えさせてください」と言った。


その後数日経って、K君がまたやってきて、「無理です。やっぱり僕にはできません」と絞り出すように言った。


「だろう。それでいいんだよ」と私はアッサリ応えた。


相手へのダメージを優先するのではなく、自分の恥の方に意識をフォーカスする。それでこそ”善良”な人間なのだ。鬼を退治するのに、鬼になってはいけない。


世の中には、「負けるが勝ち」ということがある。負け惜しみでもなんでもなく、最後に勝つのは、”善良”な人間なのだ。


それからも私とK君は長い間、Y課長のさまざまな悪辣で陰湿な罠に苦しめられることになったが、決して汚い手を使って反撃はしなかった。


いつしか私は会社を去り、やがて風の噂でK君も辞めたと聞いた。


会社は大きく人員を削減して規模を縮小し、生産部門は廃止になり、倉庫専業として細々と続いているようである。


Y課長がどうなったかは、誰も知らない。

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