【回答】
結論から言うと、「身体で怒ってない」から忘れるのだと思います。
たとえば私は、2008年に福田康夫が総理大臣を放り出した時の怒りをまだ覚えています。
30歳になる直前に日光東照宮に観光に行っており、麓のビジネスホテルでそのニュースを聞いたのですが、何だか無性に腹が立った。
いったい何のどういうところに怒りを感じたのか、ハッキリと覚えていません。
「何で怒ったのか」頭では細かく覚えていない。
しかし、身体の芯にそのジリジリとした怒りを感じ、その焼け残りが今でも微かに体内に残っています。
同様に、消費税増税を決定した野田佳彦。
また、311の時に「報道しない自由」を行使しまくって大本営発表に終始した朝日新聞。
いずれも身体の深いところの芯の部分に激しい怒りを感じ、それは続いている。
そうした「身体の怒り」は、おそらく自分自身の生き方とか信念に抵触するところで発生するのだろうと思います。
彼らのそうした行いが、私が日頃から貫こうとしているナニカシラに反する時に、激烈な拒絶反応の摩擦を起こし、発火する。
その手の「抽象性を持った怒り」は、具体的な誰かにぶつけるような種類のものではありませんから、圧縮して内面の深くにしまいこむほかない。
それがまた「自分はそうあるまい」という厳しさを育て、信念の純度を高める。
そういう正の循環があるわけです。
思うに、日本人の多くは、そうした「深い怒り」を感じる人が少ない、又は感じたとしてもその処理の仕方を知らない。
なので、しっかりと「”怒り”を”怒る”」ということができないのだろうと思います。
理不尽な目に遭ってもヘラヘラしているか、ペコペコして自責・自罰に走るか…
そうやって「やり過ごす」ことに慣れていく。
他人の悪にも自分の悪にも寛容になっていく。
されども、そうした振る舞いでなければ生きづらい。
そんな世の中なのもまた日本であろうとも思います。
ある意味では、高度な「現実との折り合いの付け方」とも言えるかもしれませんが、
目的が「フワフワと波風立てずに生きていく」ところに特化しているために、一度落ち始めると社会全体のクオリティは下がる一方なのです。
そのように日本人のモラルの底が抜ける、ということは、
三島由紀夫が1960年代後半には”予言”しており、
その予言を近年頻回に引用する社会学者・宮台真司さんも「社会の底が抜ける」という表現を使って説明していました。
私はその両名の言うことを何となく苦々しく見ていたのですが、
残念ながら否定できません。
ほぼ全員の心の中に、「コレだけは許せない」という芯が失われているのでしょう。
なので「自民党が統一教会と通じている」ということが、
「それはけしからんなぁ。ナハハ」程度の受け止めにしかならんのではないか。
そこで、いったいどのように、大多数の日本人の心にモラルの根を取り戻すのか、ということを考えるわけですが、
ちゃんとした答えはありません。
「宗教」ではありえないし、三島・宮台が言うような「天皇」でもないと思います。
ただ、ここに答えがある、ということだけは、わかっています。
例えば私の「身体の怒り」の源たる、宗教とは無縁の強い倫理観はいったい何なのか。
あるいは、統一教会の二世信者ののなかに、狂信者の両親から生まれて統一教義漬けにされて生きてきたのに、
「この宗教はおかしい・間違っている」と悟って離反していく人たちがいる。
親と訣別し、自己存在のアイデンティティの根幹が揺らぐような認識なのに、それでもなおその”悟り”を得て、その認識に向き合い、自分のものとする”元二世”たち。その土台となる倫理観とはなにか。
両者はおそらくほぼ同一のものであり、
いずれも宗教とは無縁の「絶対倫理観」とも呼ぶべきかなり強い感覚と思われます。
その原理・成り立ちがわかれば、日本を建て直す鍵になるのではないか。
そう思っています。
しかし…自分のことなのに…
それがなんなのか、わからないのです。
困ったことに…。
いずれ、必ず突き止めます。
◇お返事をいただきました。