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20年後、女性が阻まれない社会になる?


母は学校から医学部を進められるが、結婚できなくなると反対され… 私は京芸を目指すも女性枠の あまりの少なさに私学へ -建築に進みたかった ガインテリアしか許されず、就職は祖父に阻まれ・ 娘は国立・理学・修士へ進むが、女性ゆえのハラスメントを数々受け博士を断念。孫娘が世に 羽ばたく20年後には 女性ゆえに阻まれる事の無い世の中になっているでしょうか? 娘の所属する研究室から お子さんのいる友人家族がアメリカ・ドイツ・ シンガポールetcへ 職を得て近年出国が続いています。娘家族も 孫娘の為に海外へ出るか悩んでいますが どう思われますでしょう?

【回答】

今の若い人は女性差別意識などない、と言う人がいて、「女性差別は私たちの世代が管理職になる頃には自然となくなる」みたいなことを主張することがありますが、そんな簡単なことではないでしょうね。


いかなる差別も、個人の意識と社会構造から成り立っています。

いかに個人の意識レベルで差別意識がなくとも、社会構造に差別の仕組みが組み込まれている以上、「自然となくなる」ことはありえません。


構造に内包された差別は、やがて”無垢”な個人の意識に侵食し、感染し、個人を構造の保存・継承を助ける再生産者に作り変えます。


何もしなければ差別を含む社会構造は保存され、次世代へ受け継がれます。


逆に言うと、もし私たちが今、ある事案について「差別がなくなっている」と確認できるならば、かつて「差別(構造)をなくすために努力し、闘った人々」がいたということです。


私たちは、そのように、知らずに前世代の”勝利”の恩恵を受けている。


差別を解消するためには、「闘い」が必要であり、その為の不断の努力が必要ということです。


さて、構造に組み込まれている差別の解消に取り組むためには、まず社会全体として差別を自覚して、意識化するプロセスが不可欠です。


多くの差別解消運動の先達は、

「そのような差別は存在しない」とうそぶく差別者に働きかけ、その主張を突き崩すところからの戦いを余儀なくされてきました。


その意味で「自分たちの世代には女性差別はない」などという若者の主張は、

女性差別を解消する運動を後退させるものです。

彼らが現在「女性差別を感じることがない(薄い)」と思うのであれば、

その状況は「前世代によって勝ち取られたもの」であるという認識が必要なのですが、

もしそのような歴史的文脈を完全に無視して、今現在女性差別問題に取り組んでいる人に冷たい目線を向けるのであれば、それは無知ゆえの倒錯といわねばなりません。


そのように倒錯した彼らが社会のさまざまなところでイニシアチブを取って主役になるのであれば、20年後には、意識化されない差別が、社会として”身体化”し直され、より深刻になっている可能性すらあります。


だからと言ってさっさと海外に出ろ、と、安易に無責任なことも言えません。

海外には海外で別の差別がある。


もちろん日本のような人権後進国と違って、

「差別との闘い方」も意識化され、標準化され、取り組むのはより楽かもしれません。


私が若い頃ならば、迷わず海外に出ていたと思います。

私の場合、諸事情でそれは叶わなかった。


何が正しい、ということはありません。


いかなる選択をするにせよ、それぞれの道に困難があり、どんなものであれ、選択の結果を引き受ける、という覚悟をできるか、ということではないでしょうか。


自分で考えて判断して、決断して選択して、結果については自分で引き受け、責任を持つ。


その覚悟があれば、どんな場所でも生きていける、と私は思っています。

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